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江島神社

江島神社辺津宮

江島神社は神奈川県藤沢市江の島に鎮座する神社であり、日本三大弁財天とも称される神社です。三大弁財天とは、一般的には厳島神社、竹生島神社、江島神社を指しますが、弁財天とは元々仏教の守護神であり七福神の一人です。なので、先に挙げた三大弁財天を祭る神社は、神仏習合によりお寺と一緒になっています。厳島神社と大願寺、竹生島神社と宝厳寺、江島神社と金亀山与願寺です。

目次

弁財天を祭る

江島神社のご祭神は「江島大神」といい、奥津宮に多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)中津宮に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)辺津宮に田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)がそれぞれ祭られて三女神を総称して江島大神と申し上げるそうです。古くは江島明神とも呼ばれていたようですが仏教との習合によって弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至った背景があります。
 本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。弁財天については宗像大社の記事を参考まで。

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江島神社の由緒

諸説の一つによれば『江島縁起』では、欽明天皇13年(552年)4月12日から23日の朝まで大地が大きく震動し天女が十五童子を従えて現れて、江の島を造ったと表現しています。このことを社伝では、「欽明天皇の御宇ぎょう 神宣しんせんにより詔して 宮を島南の竜穴に建てられ 一歳二度の祭祀この時に始まる」と記しており、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(御窟おんいわや・現在の岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社のはじまりであると伝えています。
 その後、山岳信仰の祖「役小角(えんのおづね)」が江の島の御窟に参籠して修験の霊場を開きました。これに続き、泰澄(たいちょう)、弘法(こうぼう)、日蓮(にちれん)等の名僧が、この御窟で次々に修行したと伝えられています。
 鎌倉時代には源頼朝が戦勝祈願を行い八臂弁財天と鳥居を奉納。また後宇多天皇が蒙古軍を撃ち退けた御礼として江島大明神の勅額を奉納し、このことから「戦いの神」としての弁財天信仰が広がったようで、武士の多くが江の島を訪れるようになりました。江戸時代以降では「戦いの神」から弁財天である「芸能・音楽・知恵の神」として、また「弁財」「福徳財宝の神」として信仰されるようになったようです。慶長五年(1600年)には徳川家康も参詣、代々の将軍たちも、病気の治癒、安産、旅行の安全などを祈願したと伝えられています。
 1649年には仏教との習合により江島神社は金亀山与願寺と称されるようになったのですが、明治時代になり神仏分離によって「江島神社」に至ります。

天女と五頭龍伝説

伝説によれば、1500年以上前に鎌倉の深沢には大きな湖があったそうです。そこには頭が5つある恐ろしい龍が住んでいました。五頭龍は山崩れやら洪水やら天変地異を引き起こし村を荒して人々を苦しめていたそうです。暴れ狂う龍を鎮めるため村では幼い子供を五頭龍に生贄として差し出していました。
 欽明天皇13年(552年)のこと、突如として海上に雲が立ち込め天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れてたあと、そこには何もなかった海上にひとつの島ができていました。それが江の島です。
 現れた天女を見た五頭龍は美しさのあまり一目ぼれし結婚を申し込みますが、これまでの人に対する残虐非道な悪行が祟り断られます。しかし五頭龍は心を改めることを決意して人を守ることを誓い、善行を尽くすと約束し結婚に至ります。
 生まれ変わった五頭龍は、日照りによって人が困っているときには雨を降らし、実りの秋を襲う台風を跳ね返し、津波を押し返して村や人を守ったといいます。五頭龍は時代が流れても天女が作った江の島を守りたいと心に決めて、江島の対岸にある「竜口山」に鎮守し、そこには五頭龍をまつるのが龍口明神社(鎌倉市腰越)が鎮座しています。

江島神社Gallery

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