清水次郎長は知っている人が多いのではないでしょうか。親分ですが、名前だけ知っているという人も多いと思います。ここでは清水次郎長の生き様を紹介したいと思います。なぜならば占いや開運といったことに通ずるところがとても多く参考になるからです。
- 運命を変えた男、清水次郎長とは
- 生き様とは
清水次郎長
清水次郎長は江戸時代から明治時代に生きた方ですが、 幼少のころからの暴れん坊で全国にまで名前をとどろかせた天下の大親分です。 しかしただの血生臭い暴れん坊や悪党でないからこそ、今まで数々の時代劇や映画の題材になってきたのです。 それは彼の後半生に秘密があります。
1820年に生まれ本名を山本長五郎といい、母方の叔父にあたる米問屋を営む山本次郎八の養子に出されます。 若いころから喧嘩や博打に明け暮れ、粗暴な日々を送っていたといいます。
太く短く生きる
20歳のころ、彼が歩いていると旅の僧侶に声をかけられます。
「お主の顔に死相が出ておるぞ。気をつけたほうがいい…。後5年程度の寿命、25歳までいきられないですぞ。」
「何を根拠にいってやんでぇ~!」
「何人も見てきて今まで外れたことはなかった。見間違えんわい。」
といって僧侶は去っていったそうです。次郎長は「何て酷い事をいう坊主だ」と思いつつも、僧侶の言葉が心の片隅に残っていたそうです。
25歳まで生きられないかもしれない…、ならば「短い生涯なら太く生きてやる」
そう言い聞かせ、相変わらず粗暴な日々を過ごすようになったようです。そして23歳のとき博打でイカサマの疑いから人を切りつけ、それをキッカケとして妻と別れて家を出、財産はすべて姉夫婦に譲って諸国を放浪します。
「いずれ死ぬのなら、財産を持っていてもしょうがない。人の恩を背負ったまま死ぬのは忍びない。」
それまでの人生観に変化が生まれます。喧嘩っ早く粗暴だった行動も少しずつ改まり、人情や正義に反しない限り暴力を振るうことはなくなったといいます。
生き様
次郎長の後半生、生き様を象徴するかのような事件が48歳の時に起こります。それは明治維新が迫り幕府軍と新政府軍の攻防が激しくなっていたときです。次郎長の住む駿河湾で幕府軍と新政府軍の軍艦が激突します。この戦い咸臨丸事件といわれ、新政府軍の勝利で幕府側はほぼ全滅となり、数多くの死体が海に浮かびます。しかし新政府の監視が厳しく人々は弔うことすらできなかったのです。
それを聞いた清水次郎長はすぐさま子分を引き連れ、数多くの幕府軍の屍を丁寧に埋葬し石碑まで立てたのです。勿論その行動は新政府側の耳にも届き、文句をつけはじめます。しかし次郎長はそんな新政府側の文句を毅然と一言で一蹴し突っぱねます。
「死んだ者に官軍も賊軍もない。皆等しく仏様ではないか。」
この出来事が山岡鉄舟の耳にも届き、次郎長の行為に対し感謝したといわれています。 そして次郎長は益々地元の人々から尊敬されるようになったといわれます。このころから清水次郎長は事業家としての才を発揮して、富士山南麓の開墾事業や油田開発、清水港の改修工事、私塾の英語教育を熱心に後援した等、後世に話が残っているようです。
寿命が延びた理由
ただ、20歳の時に旅の僧侶いわれた「25歳まで生きられない」という言葉をかけられています。
「アノ坊主に騙された…」そう思ったに違いありません。
そんな中、またあの旅の僧侶が清水次郎長の村を通ったそうです。清水次郎長は駆け寄ります。
「おい、坊主。この俺に嘘つきやがったな! 死相が出ていると言ったきり、死にやしねぇぞ!」
そういわれた僧侶は次郎長の顔を覗き込むとこう言いました。
「お主の顔から死相が消えておるぞ…。お主、あれから何かしただろう?」
清水次郎長は粗暴な生き方を改めたこと、弱きものを積極的に助けたこと、 財産を独り占めすることなく皆に分配したこと…等を話しました。僧侶は合点がいったようで
「おお、それじゃ。善功を施し多くの人を喜ばせ幸せにしたから寿命が延びたんじゃな…」
造命
結局、清水次郎長は74歳という当時としては長寿で人生をまっとうして亡くなりました。 次郎長は自身で自らの短命という運命を変えたのです。 次郎長は見知らぬ僧侶に死期が近いと言われましたが、積極的に自分の人生を切り開いき新しい運命を造っていく“造命”をしました。
次郎長が僧侶に死期が迫っていると言われた後、運命の選択があったはずです。 気にせず変わらぬ生き方を続ける、自暴自棄になり更にでたらめな生活をする、という選択肢だってあったはずですが、 次郎長はその選択肢を選ばず、人生を改めたのです。
これは特に特別なことではありません。私たち誰しもできることなのですから。