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十七条憲法について

唐本御影(とうほん みえい)

 聖徳太子(しょうとくたいし)は、飛鳥時代の皇族・政治家であり、冠位十二階や十七条憲法、遣隋使などで功績を残された人物です。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。日本に仏教思想を広めその後の日本文化の礎を作ったともいわれています。
 「聖徳太子」という名は後世の尊称ないし諡号で、厩戸の前で太子を出産したことから厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)とも言われることも多いです。
 聖徳太子と言われれば、すぐ思い浮かぶ肖像画があると思います。唐本御影(とうほん みえい)と言われているものですが、旧一万円札や歴史教科書等にあったため多くの方が聖徳太子を描いたものだと思われがちです。しかし中国で制作されたのではないかとする意見もあり、実際に誰を描いたものか決着はついていないというのが実際のところといわれております。

目次

十七条憲法

 西暦604年に聖徳太子らによって制定された日本初の憲法といわれ17条の条文で成立しており、「和を以て貴し」という有名な書き出しで始まります。現代でいう憲法の内容とは違い、官僚や貴族に対する道徳的規範を説かれており、儒教や仏教思想、法家思想も織り交ぜられて書かれ、1400年前に作られたものとは思えぬほど、現代の政治家や役人官僚にも通用する心得的な内容となっています。
 この十七条憲法は720年の「日本書紀」に全文が掲載されているのですが、『原文』は残っておらず、実際のところ作者や成立時期も曖昧なものも多いとされています。聖徳太子が作ったと伝えられていることは事実ですが、確証がなく一部は後世の創作や改変があったのではないか、とも議論があります。

十七条憲法の要旨

第一条
和を以て貴し。和を尊重すべし。むやみに逆らうことを控えよ。人はみな徒党を組みやすく、大局を見通す者が少ない。目上に従わず近隣と価値観が違うこともある。しかし、人の上下の関係なく和(なご)み話し合うことができるなら、必ず道理に合い何事も成し遂げられないことはない。

第二条
三宝を敬いなさい。三宝とは「仏・法・僧」。これは生きとし生きるものすべてが帰結する拠り所であり、すべての国の人が仰ぎ尊ぶ価値である。どの時代でもどの人でも法を尊ばない悪人は多くない。皆に教えればみな従う。三宝に帰結しなければ曲がった心間違った考えは直されない。

第三条
君主の詔(みことのり)を承ったなら、謹んで承ること。君主は天であり、臣民は地であるようなもの。万物は天に覆われ地に載せられることで、春夏秋冬の四季がめぐるように物事はうまくいく。逆に地が天を覆うことを目論めば破滅に至るだけ。君主が命ずれば臣民はそれを承り、上の者が下が従うようにしなくてはならない。君主の詔を承ったならば謹んで承りなさい。そうでなければ自ずと滅んでしまう。

第四条
諸々の官吏、役人、官僚は礼を基本としなさい。人民を収める基本は礼にある。上の者に礼がなければ下の者の秩序が保たれず乱れる。下の者に礼がなければ、罪を犯す者が出てくる。上の者に礼が秩序が乱れず、下の者に礼があれば国家は治まる。

第五条
飽食の貪りを改め、財物等の欲望を棄てて光明に裁く必要がある。1日に千件にも及ぶ訴えは歳月が過ぎる毎に増えるもの。昨今では訴訟を取り扱う役人であっても私利私欲に偏り賄賂を受け取って裁くことが目に付く。したがって財産ある者の訴えは石を水の中に投げ入れるように容易に聞き入れられ、貧者の訴えは水を石に投げ入れるように拒絶されてしまう。このように貧しい民はどうしていいか分からずとなり、これでは役人としての道理も欠いている。

第六条
悪を懲らしめ善を勧めること(勧善懲悪)は、古来の良い規範である。人の善行は隠さず悪行は改めて正す。諂(へつら)い偽る者は国を亡ぼす武器、人民を亡ぼす剣となる。また媚(こ)びる者は、好んで上の者に下の者の過失を告げ口し、下の者に会えば上の者の過失を誹謗する。このような人は君主に対する忠誠がなく、人民に対する仁愛や仁徳がなく、世は大きく乱れるもととなる。

第七条
人には各々任務と役割がある。適切に担い権利権限を濫用してはならない。優秀な人材が官にいれば讃える声が起こるし、邪なる人が官につけば災禍が起こる。生まれながらの聡明な人は少ない。努力と学びによって聖人となる。事柄の大小にかかわらず適任者を得れば治まるものである。時代情勢の緩急に寄らず聡明な人が治めれば、具足円満に治まるもの。同様に国家も永く繫栄していく。したがって古(いにしえ)の聖王は官職のために人を求めたのであって、人のために官職を求めたりはしなかった。

第八条
諸々の官吏、役人、官僚は朝早く出勤し遅く退勤しなさい。公の仕事は暇がないし、終日働いても終われるものでもないほど多い。遅く出勤すれば急用に対処できず、早く退勤すれば成し遂げられない。

第九条
信は義の根本。何事も真心を以て為すべし。諸々の官吏、役人、官僚の間に信(真心)があれば何事も成し遂げられる。信(真心)がなければ成し遂げることがない。

第十条
怒りや恨みを棄て、人と違うこと、逆らうことを怒るな。人はみな心があり、自分が正しいと思うもの。相手が正しく自分が間違っていることもあれば、相手が間違い自分が正しいこともある。自分が必ず優れているわけでも、相手が愚かなわけでもない。どちらも凡人である。共に賢さと愚かさを併せ持っている。相手が起こったとしても、むしろ自分に過失がなかったかを振り返り反省せよ。自分の考えがあっても人の意見を聞き入れ協調し振舞いなさい。

第十一条
官職の功績と過失を明確に調べて、必ず賞と罰を与えなければならない。昨今は、賞が功績に基づいて、罰が罪に基づいて適正に与えられていない。賞罰を適正明確に与えなければならない。

第十二条
地方の役人は、独自に庶民に対して徴税してはならない。国にも民にも二人の君主はない。国内の全ての民は王(天皇)を主とするのであり、任命された官吏は皆、王(天皇)の臣下である。どうして無理に公と並んで庶民から徴税するのか。

第十三条
諸々の官職に任じられた者たちは、任務を把握するべき。病気や使役で業務が行えないことがあっても、復帰したら全て把握して協働できるようにし、聞いていないなどと公務を拒んではいけない。

第十四条
嫉妬心を持ってはいけない。自分が他人を嫉妬するから嫉妬されるようになる。嫉妬には際限や限度が無いもの。自分より智や才が優れた者を悦ばずに嫉妬しさえする。五百年を経て賢人が現れても、千年経て聖人が現れても斥けるならば、国家は治めていくことができない。

第十五条
私心を棄てて公益公僕に努めるのが、臣下の道である。私心があれば必ず怨恨が生じ、共同しなくなり、公務を妨害し、制度に違反し、法律を侵害するようになる。故に第一条で上下が和する精神の重要性を説いた。

第十六条
人民を使役する際は時期を選びなさい。冬季は閑暇なので使役してもよいが、春から秋は農業や養蚕の時期なので使役してはならない。でなければ農業がおろそかになり食べ物が不足し、養蚕がおろそかになれば衣類が不足する。

第十七条
物事の独断はしてはならない。適切に議論するべき。些細な案件は皆で議論する必要はないが、重要な案件は判断に過失や誤りがないか疑い、議論する必要がある。多くの意見を論じれば自ずと道理に適った結論を得ることができる。

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原文

「日本書紀」第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年

一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能敎従之。其不歸三寶、何以直枉。

三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。

四曰、群卿百寮、以禮爲本。其治民之本、要在禮乎、上不禮、而下非齊。下無禮、以必有罪。是以、群臣禮有、位次不亂。百姓有禮、國家自治。

五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳讞。便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。

六曰、懲惡勸善、古之良典。是以无匿人善、見-悪必匡。其諂詐者、則爲覆二國家之利器、爲絶人民之鋒劔。亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。

七曰、人各有任。掌宜-不濫。其賢哲任官、頌音則起。姧者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。

八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡盬。終日難盡。是以、遲朝不逮于急。早退必事不盡。

九曰、信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。

十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。

十一曰、明察功過、賞罰必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿、宜明賞罰。

十二曰、國司國造、勿収斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。

十三曰、諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然得知之日、和如曾識。其以非與聞。勿防公務。

十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。

十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。

十六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。從春至秋、農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辮、辭則得理。

十七条憲法が制定された、聖徳太子の時代背景

 聖徳太子が生きたとされる時代とは、581年隋の建国で中国が統一され強大な国家が大陸に出現、と同時に朝鮮半島には高句麗・新羅・百済の三国が激しい戦を繰り返しておりました。日本国内では蘇我氏と物部氏の対立し内乱が続き内政が不安定。
 604年に遣隋使を派遣するも隋の皇帝からの質問にまともに答えることができず、未開発な野蛮国であるという印象を与えてしまったともいわています。強大な軍事力を以て中国大陸を統一した隋の脅威の中、日本の豪族同士の不和内政をまとめる必要を説き、国家体制を整えることに注力し、その新しい国造りの一環として冠位十二階や十七条憲法を制定していったのです。
 その後607年に小野妹子を遣隋使として派遣。あの有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」の国書を持参させ、相手を激怒させたといわれておりますが、そんな状況でも隋との間に対等な関係を構築していったのは聖徳太子の功績ともいえるでしょう。
 また遣隋使は隋の文化を吸収するため、隋に日本はキチンとした国であると認めてもらうため、だともいわれていますが、隋との外交を通して日本に攻め入ってくるかどうかを見極めていた側面もあったとも考えられています。

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